音楽は豊かでさえあればいいのか。あるいは人生は

生活が豊かになることは、物質的にであれ精神的にであれ、一般的にいいことだとされる。自分もそこに特に異論はない。そして、精神的な豊かさをもたらすものの一つが文化であり、逆に、文化において豊かさはかなり強力な定性指標である。何らかの意味で豊かな作品は高く評価されるということである。

自分は音楽が好きなのだが、音楽の豊かさ、たとえば音楽性の豊かさや発声・音色の豊かさというのは、作品にそれがあるだけで極めて高く評価される、というようなポイントである。むしろ、極論、音楽にはそれさえあれば良いと思っている人も、(特に音楽に特別な価値を見出している人であればあるほど)多いのではないかと思う。

しかし、本当にそれだけで良いのだろうか、と常々思っているので、今回はこれについて考えたい。豊かさが音楽作品の加点要素であることは疑わないにしても、それだけで自足しているような音楽を本当によしとすべきだろうか。
たとえば、極めてよくテーマに挙がる話だが、罪を犯したアーティストの作品は、それが音楽的に極めて豊かだった場合、やはり「よしとされる」べきなのだろうか?

音楽的に豊かな作品を作るアーティストであればそんなことは発生し得ない、するとしたらそれは矛盾だ、と考える場合、それは「豊かさ無謬説」とでも言えそうである。それは、豊かさを正しさに接続した捉え方であり、正しくない人から豊かなものは生じ得ない、と考える考え方である。

また、逆に、アーティストが何らかの観点でどんなに正しくなくても、音楽的な豊かさを作ってくれればそれだけでいいのだ、と考える人もいるだろう。むしろ、アーティストによる諸々の「正しくない」経験こそが作品の豊かさに寄与しているのだ、と考え、その作品の豊かさとともにそうした「アーティスティックな」あり方を肯定する人もいるだろう。

しかし、いずれの意見でも、豊かさがその作品を肯定し、その他の論点を覆い隠す、という点に違いはない。書いていて、おそらくこの点に自分の気に食わない点があるのだと思った。豊かさには、根本的な人間の不可知、つまり「わからない」ということを覆い隠す性質があり、自分は「わからない」ことが覆い隠され、かりそめの安心を与えられるとかえって不安になる傾向があるため、この豊かさという概念が気に食わないのである。
ちょっとわかりにくいので少し具体的に書くと、「音楽の豊かさには、それ単体で作品を肯定できるような力があり」、「その音楽作品を肯定すべきかわからない、ということを覆い隠す性質がある」。しかし、「自分は、わからないということを覆い隠されるとかえって不安になる」ため、「音楽の豊かさという概念が気に食わない」のである。

自分の立場は、豊かさという概念の存在や強力さを認めつつ、それだけによって作品が自足することを否定する立場なので、ちょっとわかりづらいかもしれない。音楽的に豊かな作品というのは確かにあるが、その作品がその点だけで肯定されるのは許せないのである。何かを肯定するということはとても難しい。

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