生きている実感はどこから来るのだろうか、と最近よく思う。
というのは、要するに、最近生きている実感があまりないということなのだと思う。実感の得方は人により様々だろうが、自分にとってはなんだろうと考えた時に、それは味わうことによって得られるのではないか、と思った。
味わうというのは、何も食事に限った話ではない。日々を豊かに感覚する、ということである。何も豊かそうな経験をわざわざする必要はない。自分が作った適当な料理や、何のことはない見慣れた住宅街であっても、味わい方によっては、その複雑な味わいを楽しむことができるはずである。
何かを味わうための最もチープな方法は、感じる回数をこれまでより増やすことだと思う。たとえば、何かを食べた時に、その味を認識する回数を、口に入れて最初にやってくる1回に加えて、後から追ってくるものも加えてみる。単純に考えて味が二倍になるのだ。これだけで、豊かに感じることができていないだろうか(お前の「食べること」のレベルの低さが知れるわ!というのはさておき)。
味わうためには、ある程度ゆっくりとその対象に向き合う必要がある。このゆっくりというのは、時間的にもそうだが、精神的なゆったりさの方がより重要だろう。いかに暇だったとしても、その時間の中で精神が全く落ち着きない感じである限り、何かを味わうということはできないのではないかと思う。何かを感じるそのわずかな時間において、できるだけ多くの感覚を得ることが、日々を豊かに感覚するということの第一歩なのではないかと思う。
ここのところ、自分は仕事も忙しく、他にもやることをたくさん抱えていたため、すっかり何かを味わう精神的余裕がなかった。忙しいと言っても、他人に言ったら笑われそうなぐらいな忙しさでしかないのだが、自分のキャパシティ的にはみちみちのいっぱいいっぱいという感じだった。ただでさえ貧しい自分の感性がさっぱり働かなくなり、日々の全てが流れていってしまうように感じていた。(自分は常々、日常が流れるように飛び去っていき、気がつくと死期を迎えていた、というのが、最も怖い死に方だと思っている。そのような意味で「死」を感じてすらいたのである。)
今週に入って忙しさは少し和らいだ。と同時に、上記のようなことを考え、ちょっと「味わう」ことに目を向けてみようかな、と思ったのである。
「味わう」ことを始めてみると、けっこう気分がいい。雲ひとつない秋晴れの空や、澄んで見える街並みや、シャワーが表皮を流れていく熱さがいちいち新鮮に感じられる(季節がいいだけかも)。「味わう」ことによって、自分の生の中に生活が定置されていくような、地に足の着いた感覚になってくる。自分の感覚をもとに選択し、主体的な生を生きていくためには、自分にとってはこうした感覚が必要なのだと感じている。そうでないと、もし今の日々が過去の自分の主体的な選択の結果だったとしても、何だか流されていくような感覚を覚えてしまうのである。
自分は贅沢な生き方を欲しているんだなと呆れる気持ちもないではない。が、自分の欲するところがこうしたものならしょうがない。競争や戦いはそれをしたい人たちに任せて、自分は、仕事やその他諸々の「回避し得ないもの」によって、「味わう」生活が潰されないように、ということをまず意識して生きていこうか、と思っている。
そして、他の人々が自分と同じように「味わう」ことを欲しているにも関わらず、それが何らかの社会的要因によって叶わないならば、自分は受益者として、その妨害要因を取り除くためのアプローチをする義務を同時に負うのではないかとも思っている。生活を味わえば味わうほど、今のところ自分が小狡く楽な生き方をして立ち回れていることへの意識も同時に強まってくるので、そうしたことをどうしても考えてしまうのである。
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